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埼玉から東京に引っ越して10年が経った話

10年前の春、生まれ育った地である埼玉を離れ、東京に引っ越しました。
良い機会なので、埼玉時代と東京時代に分けて僕の人生を振り返ってみようと思います。
いわゆる自分語りというやつです。
非常に長いので、普段140文字以下の文章ばかり目にしている人が読むと、脳が処理能力の限界を超えて爆発する恐れがあります。

埼玉時代

1994年2月24日、埼玉県川口市に生まれました。
川口市は埼玉南部に位置し、足立区と北区に接する東京のベッドタウンです。
田舎というほど山に囲まれているわけでも、都会というほど栄えているわけでもない……まさに郊外という言葉がぴったり合う町です。
父、母、姉、僕の4人家族で、週末には車でジャスコ(現在のイオン)に行くような、きわめて平凡な家庭で育ちました。

幼稚園時代

幼稚園児の頃の僕は、とにかく泣き虫でした。
母に連れられて幼稚園に行くのですが、別れる際に泣きじゃくるので大変だったそうです。
もっとも、涙もろいのは今も変わりません。
アニメや映画で感動的なシーンがあると、つい涙を流してしまいます。

小学生時代

小学生の頃の僕は、真面目で活発な少年でした。
宿題はちゃんとやり、放課後には毎日のように友達と遊んでいました。
初恋をしたのもこの時期です。

中学生時代

中学生になり、僕はバドミントン部に入りました。
部内に趣味の合う人が多く、一緒にゲームをしたり、本の貸し借りをしたりしていました。
僕はそこで、自分の人生を変える一冊と出会います。
『涼宮ハルヒの憂鬱』です。
もともとSF作品が好きだったのもありますが、なにより魅力的なキャラクターやストーリーに惹かれました。
その後の僕は、ライトノベルを読んだり、深夜アニメを見るようなオタクに成り果てました。

中学2年生の春、人生最大の転機が訪れました。
長年慣れ親しんだ埼玉の地を離れ、東京に引っ越すことになったのです。
もちろん、通っている学校も転校しなければなりません。
転校することを友達に話すべきかどうか決めあぐねているうちに、終業式の日を迎えました。
「今日でみんなとお別れか……」と一人感傷に浸っていると、クラスのみんなから手紙を貰いました。
どうやら、先生が事前に話してくれていたようです。
部活のみんなには、お別れ会を開いてもらいました。
しかも、いつものように友達の家で遊んでいる際、僕に席を外すように仕向け、その間にプレゼントを用意するというサプライズ。
そんな最高の仲間たちに見送られ、僕は埼玉に別れを告げました。

東京時代

2007年4月、東京都江戸川区に引っ越しました。
江戸川区は東京東部に位置し、千葉県と接しています。
仮にも東京23区の一つではありますが、「荒川を越えたら千葉」と思っている人も多いのか、しばしば東京扱いされない不遇の地です。

中学生時代

引越しを機に自分のパソコンと快適なインターネット環境を手に入れた僕は、埼玉の友達とのつながりをつくる意味でも、ブログを始めました。
転校先の学校にはバドミントン部がなかったので部活には入らず、授業が終わるとすぐに家に帰り、パソコンに向かう日々を送っていました。
HTMLやJavaScriptなど、ウェブ系の言語に興味を持ちはじめたのもこの頃です。

高校生時代

高校生になり、僕はそれまで使っていたガラケーからiPhone 3Gに乗り換えました。
当時、少なくとも日本国内においてスマートフォンは普及しておらず、あまつさえ「絶対流行らない」という意見すらありました。
しかし僕は、この小さなデバイスが自分にとって革新的なものであることを身をもって体感していました。
なにより、コンピューターが手のひらの中にあること自体が嬉しかったのです。

高校2年生の秋、僕は人生二度目の転校をすることになりました。
転校先の学校は、ヤンキーとオタクしかいないという特殊な環境でしたが、僕のクラスではヤンキーもオタクも仲が良く、いたって平和な日々でした。

高校3年生になり大学受験を控えた僕は、自分の興味がある情報系の道に進むことを決めました。
東京電機大学か千葉工業大学で迷いましたが、後者を選びました。
前者を選んでいればまた違った人生が待っていたのかもしれませんが、いずれにせよオタクしかいないので、世界線変動率は0.000001%にも満たなかったでしょう。

大学生時代

千葉工業大学に入学した僕は、初めて本格的にプログラミングというものを学びました(言語としてはC、Java、PHP)。
学んでいくなかでその面白さに気づくとともに、もっと早く始めていればよかったと後悔しました。
なんとなく、プログラミングとは高度なもので、始めるには専門的な教育が必要なものだと思い込んでいたのです(もちろんそんなことはなく、パソコンさえあれば誰でも始めることができます)。

進級が危ぶまれながらもなんとか大学4年生になった僕は、単位を取りそびれた講義に出席しながら卒業研究をし、就職活動も行なうという生活を余儀なくされました。
一時はあえて留年することも考えましたが、「この状況を乗り越えられなければ、きっと今後の人生もやっていけないだろう」と思い、全力を尽くすことにしました。

就職活動といえば、テレビやネットの情報から「何十社もエントリーして内定ゼロ」というイメージしかありませんでしたが、僕の場合は数社のみであっさりと決まりました。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言いますが、最初からターゲットを絞り込んだのがよかったのかもしれません。

卒業研究では、研究室が認知心理学系であり、自身の記憶力が悪いことから、Android上で動作するメモアプリケーションの開発を行ないました。
分からないことだらけでしたが、教授のお力添えもあり、なんとか最終審査を通過することができました。

最終審査が終わった直後は、心にぽっかりと穴があいたような感覚でした。
講義も終わり、あとは卒業式を待つのみという状況の中、言いようのない不安に押しつぶされそうでした。
「荷物を回収するため」とか「みんなの卒業論文を読むため」とか、なにかと理由をつけては研究室に行き、そこにいつものメンバーがいることに安心感を抱きました。
しかしやがて卒業式を迎え、僕のモラトリアムは終わりを告げたのです。

社会人時代

晴れて社会人になった僕でしたが、最初の2ヶ月間は学校で勉強をしていました。
というのも、エンジニアとして採用された人は、外部の施設でプログラミング研修を受けることになったのです。
そこでは、コンピューターの基礎知識から始まり、HTML、CSS、JavaScriptを経て、Javaを教わりました。
僕にとっては大学時代の復習をしているような気分でしたが、知らないことも多く、オブジェクト指向に対する理解も深まりました。
なにより、今まで経験したことのないチーム開発を経験できたのは大きかったです。
その後、僕らは社内システム開発を行なうことになるのですが、一言で言えば失敗に終わりました。
一時は色々なものをやめたくなりましたが、僕は元気です。

2017年になり、僕らはそれぞれ別のチームに配属されました。
僕は現在、サーバーサイドでJavaのプログラムを書いています。
僕がコーディングを行なう前にコードレビューやテストコードの実装を任せていただいたので、ある程度はシステムに対する理解ができていましたが、それでも実装には苦労しています。

そしてこれから

1年前の春、僕は言いようのない不安にかられていました。
今も、同じような感覚です。
4月には後輩が入ってきて、僕は先輩になります。
1年目では許されても、2年目では許されないこともあると思います。
今はただ、エンジニアとして、なにより社会人として一人前になるために努力するのみです。


埼玉県のひみつ (学研まんがでよくわかるシリーズ 地域のひみつ編)

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